本を読むという事

読書はわれわれ人間にとっては心の養分ですから、一日読書を廃したら、それだけ真の自己はへたばるものと思わねばなりません。


肉体の食物は一日はおろか、たとえ一食でもこれを欠いたら、ひもじい思いをするわけですが、心の養分としての読書となると、人々はそこまで考えないでいるようですが、諸君らの実際はどうでしょうか。


(中略)


そもそもわれわれは、真の確信なくしては、現実の処断を明確に断行することはできないのです。


ところが真に明確な断案というものは、どうしても道理に通達することによって、初めて得られるものであります。


そこで偉大な実践家というものは、一般に大いなる読書家であり、さらには著述をもなし得ている人が多いと言えるわけです。


ですから「偉大な実践家は、大いなる読書家である」という言葉の意味の分からぬ程度の人間では、とうてい問題にはならないわけです。


もちろん学者と実践家とでは、同じく書物を読むにしても、その読み方は違いましょう。


学者は学者としての職責上、細部にわたる研究もしなければなりませんが、実践家の読書は、大観の見識を養うための活読、心読であって、その点、実践家の読書の方が自在だとも言えましょう。


以下は、「マネジメントの父」とも呼ばれる、経営学の第一人者“P・F・ドラッカー”氏の言葉です。


___


成果をあげる人に共通しているのは、自らの能力や存在を成果に結びつけるうえで必要とされる習慣的な力である。


起業や政府機関で働いていようと、病院の理事長や大学の学寮であろうと、まったく同じである。


私の知るかぎり、知能や勤勉さ、想像力や知識がいかに優れようと、そのような習慣的な力に欠ける人は成果をあげることができなかった。


言いかえるならば、成果をあげることは一つの習慣である。


習慣的な能力の集積である。


そして習慣的な能力は、常に習得に務めることが必要である。


習慣的な能力は単純である。


あきれるほどに単純である。


七歳の子供でも理解できる。


掛け算の九九を習ったときのように、練習による習得が必要となるだけである。


「六、六、三六」が何も考えずに言える条件反射として身につかなければならない。


習慣になるまで、いやになるほど反復しなければならない。


___



「動物と人間の違いが分かるか?


人間は書物を通じて、人の一生を数時間で疑似体験でる。


だから、本を読め。生涯勉強し続けなさい」


この言葉は、GMOインターネットの代表取締役会長兼社長“熊谷 正寿”さんが、お父様に言われた言葉だそうです。


本を読む習慣、取り入れていきたいですね♪
posted by 43歳オヤジ | 東京 ☁ | Comment(0) | TrackBack(0) | 魂が震える話 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前:

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント:

認証コード: [必須入力]


※画像の中の文字を半角で入力してください。
※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。

この記事へのトラックバック
×

この広告は1年以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。